『大林宣彦の体験的仕事論』と『ゴロウ・デラックス』
2018年2月22日放送の『ゴロウ・デラックス』第286回目のゲストは、映画を撮り続けて半世紀以上。現在も第一線で活躍し続けている映画作家・大林宣彦さん(80歳)
大林監督の大ファンで、『ゴロウ・デラックス』やっていて良かったよと冒頭から語る吾郎さんに、大林監督は登場するなり、
と吾郎さんと柔らかくハグ。心温かくなるような光景です。
大林監督の代表作といえば、故郷である広島県尾道市を舞台にした『転校生(1982年)』『時をかける少女(1983年)』『さびしんぼう(1985年)』の尾道三部作として映画史に残る名作として語り継がれている。
さらに今年1月には『第72回毎日映画コンクール』では映画『花筐/HANAGATAMI』で日本映画大賞を受賞。しかし2016年8月、その撮影の裏側ではクランクイン前日にステージ4の肺がん余命宣告を受けていたという、今夜はそんな大林監督の壮絶な77年という映画人生を振り返ります。
「日本映画大賞」受賞
まずは『第72回毎日映画コンクール』で「日本映画大賞」を受賞したことを祝う吾郎さんに外山さん。それを受けて、“ゴロウちゃんもいい映画評(「anan no.2082」/稲垣吾郎シネマナビ!)を書いてくださってね。拝読しましたよ。とても立派な、素晴らしい”と大林監督。 それを受けて、『花筐/HANAGATAMI』という映画は体感型映画であること。自分も登場人物の一人となって、その時代を生きさせてくれる、共存させてくれると感想を述べる吾郎さんに“今度、映画出て”と大林監督は吾郎さんに手を伸ばします。その手を両手でしっかりと握手し、“決まりましたよ”とカメラ目線の吾郎さん。“こういう人じゃないとうちの映画はやれないの”、次の大林監督の映画に出演出来るといいですね。というわけで、今夜の課題図書は、
大林監督が映像に捧げた人生を振り返り、その仕事論・哲学を余すところなく語った一冊。まずは大林監督が映画監督を志したきっかけの部分を吾郎さんが朗読します。そこにはある時代背景が関係していました。
当時の日本人が「大東亜戦争」と呼んでいた、すなわち今でいうあの太平洋戦争を体験し、日本が敗けたことで「敗戦少年」となって育った僕らの世代には、それからの日本では「平和を作る」ことが一番の目標となったのです。
でも、「平和を作る」方法を学べるところなんてないんですよ。
大人たちはそれまでずうっと戦争をしてきたんですから。
それで「とにかく大人たちの真似はしないで、今まで誰もやらなかったことをやろう」ということだけを、僕は自分が二十歳になったときに、まず決めたんです」
『大林宣彦の体験的仕事論 (PHP新書)』より一部抜粋
大林監督が生まれたのは1938年。代々続く医者の家系だったそうです。 そして1941年、3歳のころにはすでに自宅の納屋にあった映写機を使って遊んでいたといいます。
大林監督年表
3歳、映写機で遊ぶ
子どもの大林監督にとっては自宅の蔵は宝物の箱で、その中で見つけたのが映写機。まるで運命のようですが、フィルムを探してきて、この動きとこの動きを繋ぎ合わせたら、この人物とこの人物を繋ぎ合わせたら物語が出来ると自分で物語を作ったり、父親のライカのフィルムと同じだというのがわかったら、そのカメラで一コマずつ映して、それを現像してもらい映写機で映すと。わずか3、4、5歳の話ですが、大林監督が独特なのは、映画館で観るより前に作っていたのです。
1960年(22歳)自主映画製作へ
映画に魅了された大林監督は、大学在学中のときから自主映画製作を開始。1963年にはベルギー国際実験映画祭で審査委員特別賞を受賞(藤野一友と共作)
その内容は『食べた人』といい、レストランで料理を食べ続ける客が包帯を吐き出し、最後には包帯だらけになってしまうという実験的な作品。こうしてアマチュア映画監督として注目を浴びた大林監督。
1964年(26歳)CMディレクター開始
広告会社からの依頼を受け、CMディレクターの仕事を開始。以前の『ゴロウ・デラックス』でも放送されましたが、1970年「マンダム」では、当時、化粧品のCMでは爽やかな男性を使うのが常識の中、真逆の男くさいチャールズ・ブロンソンを起用し、話題に。こうしてCM界の表現の幅を広げた大林監督は、その後、およそ2,000本のCMを作ったといいます。
1977年(39歳)初商業映画「HOUSE ハウス」の監督抜擢
この映画はデビュー作にして大ヒット。しかし、ここに至るまでは様々な障害が。というのも実は当時、映画監督という職業はなかったのです。例えば黒澤明氏は「東宝株式会社 監督部」の職員、小津安二郎氏は「松竹の監督部」であり、今であれば普通のフリーの映画監督はいなかったわけです。ではなぜ、大林監督がフリーにこだわったのか、その部分を吾郎さんが朗読します。
その頃まだたくさんあった映画会社はそれぞれに新人社員の公募をしていたでしょうが、入社試験を受けて合格するのは東大や京大や早稲田大学などの有名校を出たエリートたちばかり。
つまり、まだまだ既成の権威の許にある。
だから映画会社の入社試験を受けるという発想は、僕にはもともとない。
僕はそういう規制の権威の枠組みの中に入るための学校の勉強は、なんだか不自由で好きじゃなかったですから。
むしろ、東京に出るときに父親からもらった8ミリ映画のキャメラがあったので、これで自由に、新しい時代の映画を作ってみようと思ったんです」
『大林宣彦の体験的仕事論 (PHP新書)』より一部抜粋
さらに『HOUSE ハウス』も格調高い映画が良いとされる時代に、「“女子高生”が人喰い屋敷に殺されるホラー映画」とそぐわない内容でした。そんな逆風の中、東宝で企画にGOを出した人がいました。それが当時の東宝副社長である松岡 功さん。実は松岡修造さんのお父様なのです。
松岡 功氏の英断
「こんな馬鹿馬鹿しい無内容なシナリオを読んだのは私も初めてです。しかし私が納得して、私が薦める映画は、もう誰も観てくれません。だからどうか大林さんが信じる、私から見れば馬鹿馬鹿しい無内容な映画をそっくりそのまま作ってください」と語り、決定したのが松岡さんの素晴らしいところだと大林監督は言います。
そして大批判を受ける中、制作された映画『HOUSE ハウス』は美少女たちが人喰い屋敷に襲われる話として、合成映像による特撮も話題を呼び、大ヒットとなります。
大批判、しかし大ヒット!映画「HOUSE ハウス」
大林監督の同年輩の人たちには評判は悪かったそうです。実際、映画館の館主さんから電話がどんどんもらい、「満員です!大林さん!でもね……お客さん、みんな15歳以下なんですよ」と。しかし、その世代の映画監督といえば日本映画の真ん中にいる岩井俊二さんであったり、塚本普也さんであったり、手塚眞さんであったりとそういう人たちがこの『HOUSE ハウス』から育ってきたのです。
1982年(44歳)尾道三部作『転校生』
実はこの映画、実は決まっていたスポンサーが撮影直前になって降りてしまうという事態に。通常のプロの映画監督であれば映画撮影は頓挫してしまうところ、大林監督はアマチュアで映画を作ることで生きている人間だったため、すべてを自費で賄うわけではありませんでしたが、奥様が監督の収益を貯蓄してくださったおかげで多いときは4~5,000万円、少なくとも1~2,000万円を補てんして映画が出来ていったそうです。そうして気づけばお互い80を過ぎ、これまでを語り合う夫婦の言葉が、
奥様「そうねえ、使うだけだったわね。でも映画が残って、いい人たちと出会えて、色んな思い出ができて、いい人生だったね。自由に映画を作り続けてきて」
まさに大林監督を支えてくださった奥様がいるからこそ、今日まで監督はひたすら映画のことを考え、映画を作り続けることが出来たのでしょうね。
2017年(79歳)『花筐/HANAGATAMI』撮影へ
大林監督の映画人生の集大成ともいえる『花筐/HANAGATAMI』原作は壇一雄氏による短編小説で、戦争に生きる若者たちの青春群像劇。この映画で今年1月、「日本映画大賞」を受賞。しかし、その裏側である一昨年8月、映画の撮影前日に余命半年とがんが発覚。だが薬でのがん治療をしながら撮影を続行したのにはある強い思いが。
ステージ4の“がん”
一昨年の8月25日に映画撮影に入る予定で、その前日の8月24日の午後6時にスタッフミーティングをやろうとしていたが、その2時間前に「肺がん第4ステージ、余命半年」と宣告を受けた大林監督。まさしく映画のような、物語のようなタイミングで大林監督の元に訪れた運命に対し、落ち込むことはなく、“身体がフワッと温かくなってね、何だか嬉しくなってね”と大林監督。
というのは、40年前に『花筐/HANAGATAMI』という映画を作ろうとしていた尾林監督。その40年前に原作者である檀一雄氏*1に会った大林監督は、壇氏が“肺がん第4ステージ”で口述筆記で生涯の代表作となる『火宅の人』という作品を書いていたのを知っており、自身の今とそことが繋がってしまったのです。
“あ、壇さんと繋がった。この平和ボケの時代に生きた僕たちにも、あの戦争中を生きた方たちの断念や、覚悟や、痛みが少しは理解できて描けるんじゃないか。ああ、よかった。同じ肺がんになって”と思ってしまったのです。これがこの『花筐/HANAGATAMI』という映画の正体なのだと大林監督は言います。
2018年(80歳)今、伝えたいこと
その言葉を聞いた吾郎さんは、“いやあ、僕は今日お話を伺えて、今このタイミングで、今この年で、まあ、去年色んなことがあって、まあ、こうやって大林監督のお話を、貴重なお話を伺えて、本当にこのタイミングですごい良かったです”と。吾郎さんの好きな映画監督さんだったので、以前よりお会いしたかったのですが、吾郎さんが語るように今というこのタイミングこそまさに出会いに意味があるのでしょう。そういう意味ではいつも感謝をしていますが、改めて『ゴロウ・デラックス』という番組が吾郎さんにもたらしてくれるもの、その大きさに感謝をせずにはいられません。
山田くんの消しゴムハンコ
これを見た大林監督の“消しゴムは消す物だけど、決して消えない物を消しゴムで作るのがいいね”というコメントが温かかったです。
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