追悼・日野原重明先生と『ゴロウ・デラックス』
2017年7月27日放送の『ゴロウ・デラックス』第259回目は、
2017年7月18日、聖路加国際病院名誉院長・日野原重明さんがお亡くなりになりました。享年105でした。この番組にも2年前にご出演していただき、いろいろなお話を聞かせて頂きました」
外山「105年という長い歴史の中で日本の医療界のために尽くし、数々の改革を成し遂げた方です。更にその人生の中では日本の歴史的事件とも大きく関わり、社会に対しても影響を与えた方でした」
吾郎「今夜は日野原重明さんを偲んで、以前ご出演していただいた際の未公開部分も含め、105年の生涯を振り返りながらお送り致します」
日野原重明先生が『ゴロウ・デラックス』にご出演くださいましたのは、2015年10月22日。104歳のお誕生日を迎えた後でした。その日の課題図書は、
生涯、新しいことにチャレンジをし続けてきた日野原先生は、98歳になってから始めた俳句をまとめた本がこの課題図書でした。
日野原「毎日、3~4句か、5句。1日にですね。今まですね、俳句なんか作ったことがなかったんですがね、"俳句でもやってみようかな"という気持ちになったんですよ。それからですね、どんどんと出るんですよ、俳句が。作れば作るほど」
吾郎「いやだって凄い数ですよね」
それは例えばこんな句、
日野原「私はわざわざ日本から来たんだけれどもね、"ヘリコプターに乗りたいと思いますが何か年齢の制限がありますか?"と聞いたんですよ。そしたらね、"99歳まではいいけど、それ以上はダメだ"と。私はそのときにね、"実際は102歳ですがね、まあ、99歳でやってください"ってね、電話で頼んだら"いいですよ"ということで」
サービス精神旺盛な日野原先生
実はとても耳の良い日野原先生は他の医師より聴診器の使い方が上手いそうで、この日は特別に吾郎さんの心音を聴いていただくことに。先生の前まで行き、ジャケットを開いて胸を差し出す吾郎さんに"規則正しく打ってるけど、ちょっとあんたも緊張しているからちょっと早いね"と言われる吾郎さん。外山さんもぜひと促され、嬉しそうに心音を聴き、"雑音は全然ない。綺麗な音、心臓の音は若い"と言われます。
日野原先生の歴史
1911年、山口県山口市に生まれた日野原先生。ちなみに翌年の1912年は「タイタニック号」が沈没、その2年後となる1914年には第一次世界大戦が勃発し、まさに激動の時代の中、6人兄弟の次男としてすくすくと育っていきました。
満州事変の最中の1930年(20歳)、京都帝国大学医学部に入学。翌年、大病を患い、1年の休学を余儀なくされるも、1941年(30歳)、聖路加国際病院に赴任。さらにその数ヵ月後、太平洋戦争が始まりました。ちなみにこの時期診た患者さんにはこんな方も。
日野原「ああ、ありますよ」
外山「永さんがね、小さいころ身体が弱かったので、それで入院して日野原先生に診ていただいたって仰ってました」
日野原「あります、ええ」
1946年(35歳)には第一子が誕生、プライベートでは男の子3人の良き父親としての一面も。そんな日野原先生が戦後まもないころに渡米。日本とは違い、アメリカの医療としての意識の高さに刺激を受けます。そして帰国後、
1954年(43歳)日本初の人間ドック開設メンバーとして奔走
今となっては当たり前のようにある「人間ドック」
吾郎「僕も人間ドック行ってます。年に2回行ってます」
日野原「ああ、そりゃあいい。長生きするよ」
そんな日本の医療界に革命を起こした日野原先生。その後、彼の考え方を根底から変える出来事に遭遇します。それは日本中を揺るがしたあの事件でした。
1970年(58歳)よど号ハイジャック事件
この飛行機にたまたま福岡で行われる内科学会に参加されるために搭乗していた日野原先生は、富士山上空で赤軍の人たちが"これから我々はこの飛行機を乗っ取って、北朝鮮の平壌に行くから覚悟しろ"と言われてしまいます。麻縄で後ろ手にくぐって動かれないよう、トイレにも行かれないようにされてしまいます。しかし、操縦士が機転を利かせ、平壌に向かうと見せかけ、38度線を横切ったら左へ、左へと下りていき、(韓国の)金浦空港に着いたのです。1度は死を覚悟した日野原先生ですが、人質は全員無事解放。直後のニュース映像には日野原先生の姿が。
この極限状態の中で感じたことは日野原先生の考え方に大きな影響を与えたそうです。
この事態に聖路加国際病院は外来を休止し、すべての被害者を受け入れました。その陣頭指揮を執ったのが、当時の医院長である日野原先生(83歳)
第1日目の収容患者総数は640名。それだけ大勢の患者を収容できたのは、病院新設時のある信念のおかげだと言います。
こうして首都・東京を襲った未曾有の危機に日野原先生たちは大きな貢献をしました。さらに翌年の1996年、日野原先生は医療業界にある革命を起こします。それは私たちがよく知っているあの言葉を作ったこと。
日野原「そうですよ。大人の病気と成人病とよく言ったでしょ、政府は。大人の病気なんて名前ではおかしいって言ってね。あなたたちの生活習慣が間違っているから罹る、それが生活習慣病」
吾郎「成人病という言い方がそもそも変ですよね。成人になったら必ずイコールにならなきゃいけない、みたいな」
日野原「そうですよ、間違ってる。私は生活習慣病という新しい名前をつけた」
日野原先生のご自宅へ
番組では特別に日野原先生のご自宅へ招き入れていただきました。お邪魔したのは外山さんですが、広々としたリビングには先生直筆のお花の絵が飾ってあったり、104歳のお誕生日会をした後だからか、たくさんのバルーンが所せましと飾られていました。また胡蝶蘭など、お花もたくさん。皇后美智子様とのお写真や、文化勲章をいただいたときの森光子さんや当時の小泉首相とご一緒した、そうそうたる顔ぶれとの写真も。
素敵なお庭には日野原先生が好きなオリーブの樹も植えられていたり、そして次に案内されたのは先生のお部屋で、オシャレな先生はネクタイを500本ほど持っていたり、先生の書斎へ。半世紀以上にわたる膨大な書類や本が貯蔵されているため、そこかしこに大量の本が。中には"新渡戸稲造"氏の書類も。実は日野原先生は "新渡戸稲造"氏ととても親しくいていたのだそうです。そんな日野原先生の生活と性格が垣間見られる時間でした。
10年手帳
日野原先生は10年手帳を愛用しています。
例えば、ご自身の誕生日であるとか、皇后美智子様のお誕生日お祝いに呼ばれるためのスケジュールを書いていたり(吾郎:良いですね。10年後まで約束が自分自身とも出来てるのは。元気にもなるし、生きる糧にもなるし)
今後の人生の目標
日野原先生は収録後、今後の人生の目標についても話していました。
そんな日野原先生にとっての人生のゴールとは一体なんだったのか。残念ながら今となっては知ることは出来ませんが、2001年に出版され、累計200万部の大ベストセラーとなった
この本にヒントが。その一説を吾郎さんが朗読します。
人生の後半は、自分に与えられた知恵やセンスや体力を、今度は社会にお返ししていく段階です。
その自分を生かす場は、自分で探し求めるのです。
私にはいつもこんなイメージが目に浮かびます。
地獄の入り口で天秤を手にしてエンマ様が問うのです。
"自分の寿命を、自分のためだけでなく、他人のために使ったか"と。もし、天秤棒が"自分のため"の重さのせいで垂直に跳ね上がったりしたら、エンマ様はひと言、"極楽は無理だね"と、言うに決まっています。
人生のぎりぎりまで考え、感じ、働ける人間でありたい。そのための努力を惜しまず、ときに耐えて、授かった知恵を若い人に与えたい。
それが私の生きがいであり、私という存在に意味を与えてくれるものです」
そして朗読を終えると外山さんが「う~ん」と声を出し、同じように吾郎さんも「う~ん」と声を出します。そこには何一つ言葉はありませんが、日野原先生の生きる意味が、年齢を経てきた二人だからこそ感じ入るものがあるのが伝わってきます。
外山「先生のように常に前向きに、そして健康を意識して、日々を過ごしていきます」
吾郎「今夜は"ゴロウ・デラックス"特別篇をご覧いただき、ありがとうございました。日野原重明先生、どうか安らかにお眠りください」
ただ素晴らしい日野原先生の業績を称えるだけでなく、きちんと番組に出演した経緯である課題図書として俳句を嗜まれたお話も、そしてご自宅での茶目っ気ある可愛らしい姿も『ゴロウ・デラックス』らしさをしっかりと出した上で、吾郎さんと外山さんとで新たなコメント収録する。まさに番組として出演くださったゲストへの敬意がすみずみまで感じられる追悼の回でした。
Book Bangさん記事
恒例、『Book Bang』さんによる『ゴロウ・デラックス』日野原英明先生、追悼の回の記事がこちら↓