【考える葦】

某男性アイドルグループ全活動期メンバーで、左利きな彼(稲垣吾郎)を愛でる会

『稲垣吾郎“運命”に出会う。~ウィーン ベートーヴェンの旅~』感想

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7月22日(日)10時00分から10時54分にかけてBS-TBSにて放送された『稲垣吾郎“運命”に出会う。~ウィーン ベートーヴェンの旅~』について簡単ながら感想を。

 

2015年、ベートーヴェンの半生を描いた舞台作品が誕生している。タイトルは、 

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音楽史上、極めて重要な作曲家の一人であり、聴覚を失っても名曲を書き上げた偉人。史実を元に、ベートーヴェンの心情に迫る名曲『第九』誕生の感動を描いた傑作。

 

その傑作と呼ばれた舞台が再演を前に、ベートーヴェンが過ごしたウィーンを訪れた吾郎さん。旅の始まりとして花束を二つ購入した吾郎さんがまず訪れたのは、

 

f:id:kei561208:20180622175426p:plain ウィーン中央墓地

1827年3月26日、ベートーヴェンは56歳でこの世を去った。

吾郎ベートーヴェンの音楽があって、やっぱり今の音楽があって。そういうものを一番作り上げてきた偉大なねえ、音楽家なわけですから、自分としても普段耳にしているものも、すべてはここからスタートしているので、やっぱりその感謝というのはいっぱいありますよね」

 

ウィーン中央墓地

 

f:id:kei561208:20180622175426p:plain パスクヴァラティハウス

引っ越しが多かったベートーヴェンがかつて好んで暮らしていたアパート。 

【大家さんが激怒したエピソード】
ある日、ベートーヴェンは遊園地の風景が観たいと言って、事もあろうか、窓や壁を壊してしまったのです。そんなベートーヴェンを一度は追い出した大家さんでしたが、彼はまたやってくると言って出ていくと、この部屋を他の人に貸すことはなく、ベートーヴェンのために空け、その後も事実彼はこの部屋に住んだそうです。

 

tabicoffret.com

f:id:kei561208:20180622175426p:plain ベートーヴェンの恋

恋多き男であり、生涯独身だったベートーヴェン。実は彼の死後、41歳のときに書かれた宛先不明の"不滅の恋人へ"と書かれ、「私の天使、私のすべて、永遠に……」などといった熱烈なラブレターも発見されている。有力視されているのは当時親しくしていたアントニー・ブレンターノ、そしてベートーヴェンがピアノを教えていた貴族の娘、ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック。しかし残念ながら"不滅の恋人"を特定することは彼の死後200年が経っても解き明かされてはいません。

ベートーヴェン 不滅の恋人への手紙(全文)】

七月六日、朝――

私の天使、私のすべて、私自身よ。――きょうはほんの一筆だけ、しかも鉛筆で(あなたの鉛筆で)――明日までは、私の居場所ははっきり決まらないのです。こんなことで、なんという時間の無駄づかい――やむをえないこととはいえ、この深い悲しみはなぜなのでしょう――私たちの愛は、犠牲によってしか、すべてを求めないことでしか、成り立たないのでしょうか。あなたが完全に私のものでなく、私が完全にあなたのものでないことを、あなたは変えられるのですか――ああ神よ、美しい自然を眺め、あなたの気持ちをしずめてください、どうしようもないことはともかくとして――愛とは、すべてを当然のこととして要求するものです。だから、私にはあなたが、あなたには私がそうなるのです。でもあなたは、私が私のためとあなたのために生きなければならないことを、とかくお忘れです。もし私たちが完全に結ばれていれば、あなたも私もこうした苦しみをそれほど感じなくてすんだでしょう。――私の旅はひどいものでした。きのうの朝四時にやっと当地に着きました。馬が足りなかったので、駅馬車はいつもとちがうルートをとったのですが、まあなんともひどい道でした。終点の一つ手前の宿駅で夜の通行はやめた方がよいと言われ、森を恐れるように忠告してくれたのですが、それはむしろ私をふるい立たせただけでした――でも私がまちがっていました。もし私がやとったような二人の馭者がいなかったら、底なしにぬかるんだ、むき出しの田舎道のために、きっと馬車がこわれて、私は道の途中で立ち往生してしまっていたでしょう――エステルハージ(侯爵)は、別の通常ルートをとり、馬八頭で同じ運命にあった由、私の方は四頭立てだったのに。――とはいえ、幸運にも何かをのりこえたときいつも味わうような、ちょっとした満足を覚えました。――さて、外面的なことから本質的なことにもどりましょう。私たちはまもなく会えるのです。きょうもまた、この二、三日、自分の生活について考えたことをあなたにお伝えできない――私たちの心がいつも互いに緊密であれば、そんなことはどうでもいいのですが。胸がいっぱいです。あなたに話すことがありすぎて――ああ――ことばなど何の役にも立たないと思うときがあります――元気を出して――私の忠実な唯一の宝、私のすべてでいてください、あなたにとって私がそうであるように。そのほかのこと、私たちがどうあらねばならないか、またどうなるかは、神々が教えてくれるでしょう。――あなたの忠実な

 

 

七月六日、月曜日、夕方――

あなたは、ひどく苦しんでおられる、最愛の人よ――たったいま、手紙は早朝に出さねばならないことを知ったところです。月曜と――木曜、この日だけ、ここからKへ郵便馬車が出るのです――あなたはひどく苦しんでいる――ああ、私がいるところにはあなたもいっしょにいる、私は自分とあなたとに話しています。いっしょに暮らすことができたら、どんな生活!!!!!そう!!!!!あなたなしには――あちこちで人々の好意に悩まされる――私が思った、好意はそれに価するだけ受けたいものです――人間に対する人間の卑屈さ――それが私を苦しめます――そして自分を宇宙との関わりで考えれば、私の存在などなんでしょう。また人が偉大な人物とよぶものがなんだというのでしょう――しかしそれでも――そこにはやはり人間の神性があり――私からの最初の消息を、あなたが土曜日でなければ受け取れないと思うと、泣きたくなります――あなたがどんなに私を愛していようと――でも私はそれ以上にあなたを愛している――私からけっして逃げないで――おやすみ――私も湯治客らしく寝に行かねばなりません――ああ神よ――こんなにも親密で!こんなにも遠い!私たちの愛こそは、天の殿堂そのものではないだろうか――そしてまた、天の砦のように堅固ではないだろうか。――

 

 

七月七日、おはよう――ベッドの中からすでにあなたへの思いがつのる、わが不滅の恋人よ、運命が私たちの願いをかなえてくれるのを待ちながら、心は喜びにみたされたり、また悲しみに沈んだりしています――完全にあなたといっしょか、あるいはまったくそうでないか、いずれかでしか私は生きられない。そうです、私は遠くへあちこちとしばらく遍歴しようと決心しました。あなたの腕に身を投げ、あなたのもとで完全に故郷にいる思いを味わい、そしてあなたに寄り添われて私の魂を霊の王国へと送ることができるまで――そう、悲しいけれどそうしなければならないのです――あなたには、あなたに対する私の忠実さがお分かりだから、いっそう冷静になされるはずです。他の女性が私の心を占めることなどけっしてありません。けっして――けっして――おお神よ、これほど愛しているのに、なぜ離れていなければならないのでしょう。それにしてもV(ウィーン)での私のいまの生活は、なんとみじめなことか――あなたの愛が、私を誰よりも幸福にすると同時に誰よりも不幸にしているのです――この年になると、波瀾のない安定した生活が必要です――私たちの関係でそれが可能でしょうか?――天使よ、いま郵便が毎日出ることを知りました――この手紙をあなたが早く受け取れるように、封をしなければなりません――心をしずめてください、いっしょに暮らすという私たちの目的は、私たちの現状をよく考えることによってしかとげられないのです――心をしずめてください――愛してほしい――きょうも――きのうも――どんなにあなたへの憧れに涙したことか――あなたを――あなたを――私のいのち――私のすべて――お元気で――おお――私を愛し続けてください――あなたの恋人の忠実な心を、けっして誤解しないで。

 

永遠にあなたの
永遠に私の
永遠に私たちの

 

 

吾郎「人に対して思いやりがあって、ねえ。そういう愛情のある人間かなと思いきや、何か自己中心的に思えたりね。いろんなエピソードがあるからわからないですけど、そこも魅力ですよね。音楽にも表れていると思います。ね、だって同じ人が書いたような音楽じゃないじゃないですか。曲によっては。うん、そう、本当に多重人格なのかなってぐらいに。曲によってもねえ。だからそれはすごく感じますから」

 

ベートーヴェンには善き理解者であり、善き友人がいた。夫婦でピアノ職人をしていたアンドレアス・シュトライヒャーナネッテ・シュトライヒャーだ。吾郎さんが旅の始まりに用意した二つのうちの一つの花束は、ベートーヴェンの墓のすぐ横にあるシュトライヒャー夫婦の墓に手向けるものだったのだ。特にベートーヴェンのピアノを制作していたナネッテは、それまで3つだったピアノのペダルを5つにして、それまでにない音色を生み出すなどベートーヴェンの音楽には欠かせない存在だった。

 

中島かずき(脚本家)「あのナネッテ・シュトライヒャーって本編にも出てきますけれども、彼女がいたって気がづいたときに、あ、そうだと。パトロンたる貴族だとか、貴族社会の中にいるベートーヴェンしか考えてなかったんですね。違うぞと。街に出てたし、それを支える技術者がいた。あ、そうだ。街にベートーヴェンと思ったときに、あのバアッと視界が広がったんですね」

 

f:id:kei561208:20180622175426p:plain バーデン

古くから温泉が湧き、現在も保養地として知られるウィーン近郊の町バーデン。20代後半から難聴が悪化し始めたベートーヴェンは療養を兼ね、定期的にこのバーデンに訪れている。

serai.jp

実際の寝室に入ればベッドは小さく、ベートーヴェンは165cmほど、小柄でがっちりとした体型だったという。また普段はボロボロの服を着ていたので浮浪者にも間違えられたこともあるらしいが、反面、変に几帳面なところもあり、それが寝室にあるチェスト。7つの引き出しの上から月曜日から日曜日と曜日ごとに分けて服を入れ、曜日ごとに着ていたのだとか。几帳面といえば、舞台にも登場する有名なエピソードがあって、珈琲好きで知られるベートーヴェン。そのこだわりとして1杯に入れるコーヒー豆はちょうど60粒でなければならないと決めていたという。しかし、几帳面といえば聞こえはいいが、ベートーヴェンは思い通りにならないとすぐに怒りだす癇癪持ち。中にはベートーヴェンによって人生を壊された人もいる。

 

f:id:kei561208:20180622175426p:plain 甥カールの自殺未遂

弟のカスパールが41歳で亡くなり、自分の跡を継いでもらいたいと幼き甥のカールを母ヨハンナから強引に養育権を奪い、音楽を学ばせ始めたベートーヴェン。しかし、それはカールにしてみれば苦痛でしかなく、次第に追い詰められていったカールはピストルで自殺を試みてしまうのです。幸い、一命は取り止めたものの、この事件を知ったベートーヴェンは酷く狼狽し、以降、身体を悪くしていったと言われています。またそのころにはほとんど耳は聴こえない状態だったベートーヴェン、しかし驚くべきことに彼は作曲を続けていたのです。

交響曲第九番歓喜の歌」という名曲、しかしベートーヴェンの人生は哀しみや苦難に満ちていたはず。ではなぜベートーヴェンは音楽で喜びを示したのか。それを知るため、ウィーン楽友協会にいる指揮者・佐渡裕氏に話を聞き、ベートーヴェンを知るならハイリゲンシュタットに行ってほしいと足を運びます。

 

f:id:kei561208:20180622175426p:plain ハイリゲンシュタット

ウィーン北部の街、ハイリゲンシュタット。失われつつある聴覚、ベートーヴェンは親しい医師の勧めもあり、耳の回復を願って自然豊かなこの地に暮らし始める。

吾郎「何かもうちょっとこう都会で、都会のあるお部屋でね、何かこう突き詰めながら制作していたイメージですけど、何かベートーヴェンのイメージとは本当違う。自然で気持ちの良い場所で」

 

そしてベートーヴェンが暮らしていた家で待っていたのはクラシック界・気鋭のピアニストであり、今最も注目される音楽家の一人である清塚信也氏だ。

 

 

www.wien-kanko.com 

f:id:kei561208:20180622175426p:plain ベートーヴェンの絶望

そこに展示されているのはベートーヴェン『遺書』だ。そこに記されているのは、これまで傍若無人な振る舞いを続けていた真意、そして日ごと悪化する難聴の哀しみと絶望。ベートーヴェンはこれを弟のニコラウスと甥のカールに向けて書いたが、二人には渡してはいない。誰に読まれることなく、ベートーヴェンの死後、この部屋で発見されたものだ。 

吾郎「ここまでの本音を書くことはなかったですよね、きっと。まあ、本当にこれ、我々が見ちゃいけないものなんですね、きっと。本当は彼の心の中に」

 

そして死をほのめかす言葉があるため遺書と捉えられているか、それまでの自分との決別で遺書ではないとも考えられるともいう。実際、その後も交響曲第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 (1805)、第4番 変ロ長調 op.60(1807)、第5番 ハ短調 (運命)op.67(1808)、第6番 ヘ長調 『田園』op.68(1808)、第7番 イ長調 op.92(1813)、第8番 ヘ長調 op.93(1814)と数々の名曲を完成させている。

 

《清家さんの語るベートーヴェンのすごいところ》

▶それまでのモーツァルトを代表する貴族の音楽としてではなく、自己表現や哲学を注いだ芸術という作品に高めた。⇒その結果、彼の作る交響曲はオーケストラのニーズがそれまでの倍に増えて大変となる。

▶1曲を作るのに5年、6年をかけるため、曲が売れないと大変なことになる。

交響曲を作るためにピアノ曲交響曲の下書きとみて制作。例)熱情のピアノソナタ交響曲5番

▶ピアノを交響曲の縮小版に見立てている(低音から高音までここまで幅のある楽器はピアノ以外ない)⇒だからこそ、ベートーヴェンは音域にこだわった。

  

耳が聞こえなくなっても作曲は出来る。作曲家に専念し、次々と名曲を発表していったベートーヴェン。そんな彼はウィーンにやってきた22歳のとき、友人にこう語っている。フリードリヒ・フォン・シラーの詩、"歓喜に寄せて"に曲をつけたい」と。

 

f:id:kei561208:20180622175426p:plain ベートーヴェン交響曲第九番歓喜の歌」

シラーの詩に描かれているのは自由・愛・そして平等。そしてベートーヴェンが音楽で示したかったものは、すべての人が一つになる喜びだった。過酷な少年時代、失われゆく聴覚、自らの傲慢さが招いた悲劇、しかしそんな絶望の中、ベートーヴェンは自分の才能を信じた。一部の人間が社会を支配し、民衆の自由が奪われた時代。ベートーヴェンはそんな世の中を受け入れるのではなく、自分の音楽で戦った。人々の歌声と共に。

 

吾郎ベートーヴェンはですね、その歌の冒頭にある一文を加えて第九を歌詞としてるんですよ。その一文というのは、"おお、友よ。このような音ではなく、心地よい歓喜に満ちた歌をうたおう"このような音というのは第1から第3楽章のことと推測されていて、自分の音楽を否定しているところもベートーヴェンらしいとも思えますが、"友よ、歓喜の歌をうたおう"第九でベートーヴェンが伝えたかったことは友人や愛する人のいる素晴らしさだったのだと思います。そんなどうしても伝えたい思いがある、だから耳が聞こえなくなっても第九だけは、絶対に完成させたかったんだと僕は思います」

 

f:id:kei561208:20180622175426p:plain フォルクス劇場

そして旅に最後に吾郎さんが訪れたのは、1989年に建設、ウィーンにおいては国立歌劇場に次いで2番目に大きな歌劇場であり、オペラの他にもオペレッタ・ミュージカル・バレエ公演やコンサートなどの会場としても使用されているフォルクス劇場。

その舞台中央に立ち、会場を見渡しながら、夢は広がっていきます。

 

吾郎「夢のまた夢ではありますけれども、まあ、でもいつかはやっぱりこういうところで、この板の歌に立ってみたいという思いはありますよね」

 

www.wien.info

f:id:kei561208:20180622175426p:plain 吾郎さんTwitter

 

 

⇒ まるで舞台の稽古に始まり、一つひとつをブラッシュアップして、完成へと至るかのように、ベートーヴェンの軌跡を丁寧に辿っていく落ち着いた上質な旅番組でした。話で聞くもの、実際にこの目で見るもの、それによって受け取る形はまた違ってくるでしょうから、この番組によって吾郎さんが今回の舞台でベートーヴェンをまたどう演じるのかが非常に楽しみです。

番組の中で剛くんと白井さん、中島さんらのインタビューもあり、"ここでしか会えない稲垣吾郎"という剛くんの、"ちょっと新しいものが生まれたなと思って興奮した"という中島さんの、そして白井さんの吾郎さんの役者として"ベートーヴェンの輪郭を造形を作るより、自身の中にあるベートーヴェンと共感する、シンクロする部分を増幅して、自分の中でゆっくり、そして最後にグッとエネルギーを持ち上げていく姿が感動的だった"というコメントも嬉しかったです。また初演の舞台がこんなにも多くVTRで放送されるとも思っていなかったので、改めてそれぞれのファンの方々にも見ていただけたらいいなとも思うので、出来れば全国放送で深夜でもいいので再放送していただけたら嬉しいです。

舞台再演だけでなく、このような素敵な吾郎さんの中にまた一つ積み重なるような素晴らしい番組に取り組んでくださったTBSさんには改めて感謝致します。本当にありがとうございました。感想は下記までお願いします。

www.bs-tbs.co.jp