『応仁の乱』と『ゴロウ・デラックス』
2017年5月11日放送の『ゴロウ・デラックス』第248回目のゲストは、“ひとよむなし”といえば1467年の「応仁の乱」(外山:さすがですねえ。吾郎:台本に書いてあったw)についての本を出版し、なんと歴史ジャンルとしては異例な35万部を突破という話題の本を書かれた呉座勇一さん(36歳)
室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。
だが登場人物が多く、人間関係が複雑で、なおかつ乱が始まった理由でさえ専門家によって解釈が違うために、応仁の乱について詳細を知る人は歴史好きでもごく少数。その理解しづらいイメージを変えたのが本日の課題図書。というわけで、今回は応仁の乱の魅力をたっぷりお届けします。
ただし、吾郎さん曰く、“ちょっと頑張ればぐいぐい引き込まれていく。でも頑張んないと。半分ぐらいまで頑張ろう”らしいので、半分ぐらいまで頑張りましょう、皆様w
呉座さんは2003年に 東京大学文学部を卒業し、研究者の道へ。現在は国際日本文化研究センターに所属し、中世日本史研究の第一人者です。
学校で習う応仁の乱といえば上記にあるように、室町幕府8代将軍足利義政の弟である足利義視と息子である足利義尚の後継者争い、そして当時の幕府のNO.2である細川勝元と山名宗全の争い。この2つが主なものだと習いました。
しかし実際にはもっと登場人物は多く、呉座さんが書かれた課題図書では300名を超え、321ページというボリュームに。もっと端折ろうとか、簡単にという意見もあったけれど、ものすごく複雑で、ものすごく大勢の人が絡んでいるというのが応仁の乱の最大の特徴でもあるのです。そんな本が35万部も売れたのは、呉座さん曰く、「スターがいない、英雄がいないのが逆にウケた」と思っていて、応仁の乱は映画「シン・ゴジラ」の前半のような話。つまり、想定外の出来事が発生し、偉い人たちが慌てふためき、何も決まらずにただ時だけが過ぎていく。ただ「シン・ゴジラ」は後半になると皆で力を合わせ、ゴジラを退治しますが、応仁の乱はその後半がないという状態。
【呉座先生授業内容】
① 応仁の乱の原因となった人物は?
まずはその人物について朗読。この方が教科書にも触れられていない真の主役。
家永遵嗣氏が指摘する関東統治をめぐる政策対立も無視できないが、遠隔地での競合は大名間での利害調整が比較的容易である。在京大名にとって、関東で反乱を起こした足利成氏よりも幾南で暴れ回る畠山義就の方がはるかに切実な問題だったと思われる。よって、直接的な要因は畠山義就の上洛であろう」
呉座さんにとって応仁の乱のキーパーソンは当時、最強の武将と呼ばれていた畠山義就氏であり、畠山政長と壮絶な後継者争いを河内(大阪)や大和(奈良)で行っていた畠山義就。
京都では足利義政に謀反を疑われた足利義視が細川勝元と山名宗全へと助けを求めて騒動が始まります(吾郎「まあ、泣きつくわなあ、味方になってほしいわなあ」w)
両名というよりは主に細川勝元へ助けを求めた足利義視は結局、無実であることが判明。その結果、問題を解決した細川勝元が幕府の実権を握り始めます。だがそうなると面白くないのが山名宗全で、ならば政権奪還するために暴れん坊である畠山義就を味方につけようと彼を京都に呼んでしまい、さらに騒動は激しくなっていきます。つまり、畠山義就=ゴジラだと(by 吾郎)
それに巻き込まれるように将軍や大名も参戦し、戦いは全国へと広がっていくのです。
② 応仁の乱が11年続いた理由
開戦から5年が経ち、山名宗全と細川勝元の両名が戦が嫌だと言いだします。元々、この両名は応仁の乱が始まる前は義理の親子関係もあり、仲が良かったのです。それがなぜ騒動に繋がったのかといえば、細川勝元は以前より畠山政長を応援していたのに、それを知っているはずの山名宗全が畠山義就側についてしまったことが要因。つまり、その問題さえなければ、この二人の関係は元に戻ることが可能なのです。その結果、応仁の乱から8年目に西軍・東軍の総大将の二人は隠居し、戦の舞台から姿を消すことに。
しかし、畠山家の家督を奪いたい畠山義就にとって応仁の乱は大チャンスであり、自身がいる西軍が勝つまで戦を継続するつもりでいました。が、長く続く戦いに厭戦感が漂い始め、次から次へと大名たちは撤退をし出し、西軍の勝ちがなくなったと判断した畠山義就も退却。ここでようやく応仁の乱は終結を迎えます。
《応仁の乱番外編》
1477年:畠山義就は河内(大阪)に戻って大暴れ⇒「河内独立王国」を築く
どういうことかを外山さんが朗読。
大乱が始まる前から、彼は幕府の大軍を向こうに回して孤軍奮闘していたのである。山名宗全に誘われて上洛したため、幕府内の権力闘争に巻き込まれることになったが、彼の本質は幕府の権威に頼ることなく自力で領土を拡張する独立独歩の姿勢にある。
今谷明氏は畠山義就の勢力を「河内王国」「幕府威令の届かぬ独立国」と評している。言い得て妙である」
なるほど、畠山義就=シャアでもあると(by 吾郎)
応仁の乱自体は終結はしたものの、問題は何も解決はしていない。まさに畠山義就=ゴジラで、京都で暴れていた畠山義就が河内に移っただけ。
③ 応仁の乱のその後の影響
応仁の乱以前、足利将軍家も山名も細川も斯波といった有力者たちは全員地方に領地は持っているものの、京都でほとんど生活を送り、地方から年貢などの収入を受け取っていた構造が、応仁の乱の影響により自分の領地へと戻り、独自の勢力を築くこととなり、“戦国大名(自分がその地方にいて、その国を治める形)”へと繋がっていくことになるのです。また将軍家の力も落ち、それぞれの大名たちが台頭して、戦国時代へと突入していきます。
呉座さんの応仁の乱特別授業を終え、外山さんが「もし応仁の乱が映画化したら、ゴロウさんはどの役?」と尋ねると
稲垣さんが本当にどういう方かは分からないが、自分の得になるよう動くみたいな器用なことが出来ないで、馬鹿正直に言うことを聞いて、その結果、損をするみたいな、そういうところが近いんじゃないかなあ~」
と言われてましたw
僕の何を知ってるんですか!と怒った体で笑ってましたが、まあ、少なくとも吾郎さんにそういう面は確かにあるでしょうね。
そして恒例の山田くんによる消しゴムハンコは、
“あ、格好イイ”や“良い、良い、良い”と絶賛の声の中、“凄いですね。さっき、足利義政の話が出ましたが、義政は政治家としてはいまいちでしたけども、まあ、銀閣寺作りましたよね。芸術的センスは凄い。そういう意味で、これを見ているとですね、人間誰しも何かしらとりえはある”と……先生、何気に毒舌キャラ絶好調でしたねw
でも、本当に難しい応仁の乱という歴史の窓口をちょっぴり広げ、入ってみませんか?と誘う意味では今週の『ゴロウ・デラックス』も最高だったと思います。
というわけで、公式HPにも番組の感想をお願いします⇒『ゴロウ・デラックス』ご意見・ご感想大募集!| TBS
『zakzak』でもこの呉座勇一さんの回について、『ゴロウ・デラックス』に沿いつつ、過去の吾郎さんの素敵エピソードについても語ってくださる記事がありました。少しずつですが『ゴロウ・デラックス』についての記事が、そして誤解されやすい吾郎さんの良さについて語ってくださる記事が増えてきたのは素直に嬉しいです。