【考える葦】

某男性アイドルグループ全活動期メンバーで、左利きな彼(稲垣吾郎)を愛でる会

追悼・永六輔さんと『ゴロウ・デラックス』

2016年7月28日に放送された『ゴロウ・デラックス』第214回目は2016年7月7日、享年83歳にてお亡くなりになられた永六輔さんを偲び、特別追悼番組を放送。

まず冒頭では礼服を着た吾郎さんが今回について一言。 

 

 

吾郎「ゴロウ・デラックス』です。2016年7月7日、永六輔さんがお亡くなりになりました。享年83でした。この番組にも今から2年前にご出演していただきまして、いろいろなお話を聞かせていただきました。今夜は永六輔さんを偲んで、番組にご出演いただいたときのことや、携わってきた様々なお仕事をVTRで振り返りながらお送り致します。まずはこちらをご覧ください

 

 

そして始まるVTRは2014年4月24日、第119回目のゲストとして永六輔さんが出演してくださった日のこと。

 

 

吾郎「いやあ、普段ね。なかなかTV出られないというお話を聞いたことがあるんですけど、今日はなぜ、来てくださったんですか?

(永さん、無言で隣にいる外山さんを示す)

外山「無言で(笑)無言で止めてください

吾郎「今日さあ、横に並んでると不思議なんじゃないですか?

外山「そうですね

永 「あっ、とても良い所に気が付いてくれた。横に並んだの初めてなの

吾郎「そうですよねえ

永 「いつも向かい合ってて。向かい合ってて、言葉が足りない時、テーブルの下から蹴とばすからね!

外山「ちょっと、そういう誤解をね……

 

 

実はこの日はこれまで番組を一緒に盛り上げてくださっていた小島慶子さんに代わり、外山惠利アナウンサーがMCとなった初回の日。普段は滅多にTV出演をされない永さんですが、ラジオで16年もの間ご一緒した外山さんのために、特別出演をしてくださっていたのです。

まずは以前に『ゴロウ・デラックス』で伺ったお話と共に、その永さんの日本の放送業界を駆け抜けた人生を振り返ります。

1933年4月10日、東京は浅草に生まれます。実家は1690年に創建された最尊寺。

 

www.tesshow.jp

幼少時は身体が弱かった六輔少年。そんな六輔少年がもっとも興味を示したものがラジオ。中学生の頃にはNHKのラジオ番組に投稿を始め、瞬く間に頭角と表すと『日曜娯楽版』の司会者である三木鶏郎にスカウトされ、放送作家としてのスタートが始まりました。『ゴロウ・デラックス』出演時には1954年のラジオの貴重な台本を持参くださいました。

 

 

永 「台本書くでしょ。書いたのをGHQマッカーサー司令軍に持っていって、“これを放送していいですか?”って許可をもらって。それから放送するんですよ。“これはダメ”って検閲される中に、僕が書いたコントがいっぱい(台本には赤で大きく×と書かれている箇所が)昔、全部放送は台本があった。ニュースも全部あった。フリートークも全部。その台本を届けて、“大丈夫です”って判子をもらってそれで放送してたの。フリートークっていうのを始めたのは、僕と大橋巨泉前田武彦

吾郎「そうかあ。検閲とかいろいろねえ、問題もあっただろうし、喋っていいこととかねえ、許可もあったんでしょうね

 

 

そんな永さんはある日、台本を書くより自分が出たほうが早いことに気づき、出演するようになりました。それはラジオだけでなく、テレビの誕生から係わりが。そんな永さんが係わった伝説的な番組のひとつが『夢であいましょう

 

 

外山「永さんだってさっき照明がね、こんな明るいんだねって仰ってましたけど、テレビを作った方ですよね?元々

永 「(笑)実験放送をやってました

外山「実験放送ですよ

永 「テレビに出た人で火傷した。照明が熱くて。着てるものが色が変わっちゃう、焦げて

吾郎「そんなに照明当ててたの?

永 「そうしないと映らない

吾郎「え、映画の照明どころじゃないんだ

永 「じゃない

外山「じゃ、危険じゃないですか

永 「危険だし、倒れた人もいるし、救急車が来たときもある

吾郎「そんな……実験放送だね

外山「テレビの本放送が開始された時っていうのはどれくらいあったんですかね、テレビってね

永 「テレビ?1000台なかった。あの“夢であいましょう”で言うと、渥美清がいるでしょ、黒柳徹子もいるでしょ、坂本九も出てるでしょ。ジャニーズも。番組をやってる時に自分の家にテレビがあったのは坂本九だけ。あとは喫茶店へ見に行った

吾郎「タレントさんでも、テレビに出るスターさんでも持ってなくて、1000台なかったの?

永 「なかった

吾郎「それでテレビやろうと思ったって、すごいですよねえ。テレビの、テレビが当たり前の時代が来るって思ってたんですか?当時から

永 「いやあ、思ってなかった

 

 

様々な才能が集まり、伝説的な番組となった「夢であいましょう」その中でも終生変わらぬ親交を結んだのが黒柳徹子さんでした。

 

 

永 「僕、この番組以外で出てる番組の一つに“徹子の部屋”ってのがある。この間、“徹子の部屋”に行ったの。若いスタッフが来て、“永さん、すみません。あのカメラが永さんを映します。上が赤くついてます。あれがつくと永さんが映ります”って僕に説明してるの。チャック(黒柳徹子)が怒ったらしいの。穏やかな黒柳くんが。“あなた、この人はテレビ作った人なのよ!!”

吾郎「黒柳徹子さんはどこからいらした方なの?

永 「NHKの放送劇団がテレビが始まるについて、新しい若い人を育てようっていうので、NHK放送劇団で募集したの。その時に一番成績が悪かった

外山「黒柳さんが

永 「そう、落とされてた。テレビっていうのは何だかわからないから、もしかすると黒柳くんみたいなとんでもないのが合うかもしれないから採っておこうってことで(テレビ業界に)入った人なの

吾郎「じゃあ、当時からやっぱ個性的な。今でこそ黒柳徹子さんというキャラクターで僕ら子どものころから見てるから……でもやっぱり、風変わりな方ですもんね

 

 

そんな親友でもある黒柳さんらとテレビの礎を築く一方、作曲家でもある盟友、中村八大さんと次々にヒット曲を量産。作詞家としても一時代を築きます(有名なところだとザ・ドリフターズ『いい湯だな』(1968)梓みちよ『こんにちは赤ちゃん』(1963)…etc)

1959年には「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。しかし第1回とあり、今の華やかなものではなく、

 

 

永 「局の前の喫茶店の2階で授賞式があった。コーヒーが出てるだけ

外山「レコード大賞の1回目は

吾郎「授賞式がステージじゃなくてカフェ。なんかゴルフのコンペみたな感じだね

永 「今だからレコード大賞って分かるけど、1回目は誰も何だかわからない

外山「1回目は永さんが、作詞なさった“黒い花びら”、水原弘さんの。が、受賞したんですよね

永 「そう

外山「1回目はそうですよね

吾郎「永さん、すごいじゃないですか

永 「俺、すごいんだよ!!

吾郎「すごい、すごいんだねえ

 

 

1961年には有名すぎるほど有名な、日本音楽界を変えた坂本九さんの「上を向いて歩こう」という曲を生み出します。この曲について62歳だったころの永さんは

 

 

永 普通メジャーとマイナーに分かれちゃうけど、メジャーとマイナーが混然一体としている曲って珍しいんですよね。これはそういう曲ですから、やっぱり八大さんってすごかったんだなあというのが実感です。(中略)涙がこぼれないようにとにかく歩こうという状況が、日本のいろんな環境の中で繰り返されてきたんじゃないかって気がするんです。日本人ってどっかで涙ぐみながら、それでも歯食いしばって進んできた(戦後)50年だったんじゃないかなって気がしますね

 

 

ちなみにプライベートでは1965年に結婚。お子さんは娘さんが二人(長女の永千絵さんは映画エッセイスト、次女の永麻理さんは元フジテレビアナウンサーで現在はフリー)、お孫さんは男の子4人に恵まれた良きおじいちゃんという一面もあったそうです。

1990年には「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」がスタート。旅先での出来事を軽妙に語るコーナーが人気を博しました。1994年の61歳のときには『大往生』が200万部を超える大ベストセラーに。

 

大往生 (岩波新書)

大往生 (岩波新書)

 

 

そして2000年、ラジオのアシスタントとして外山さんと出会い、以来、16年を共にします。ちょっと番組とは逸脱して、外山さんと永さんのエピソードをひとつ。今年の春だったと思うのですが、“徹子の部屋”に松島トモ子さんが出演されたときに永さんとのエピソードが出、永さんからカラオケを誘われたと。ただ、松島さんも経験したことがなかったので母と一度カラオケを試したものの、やはり当日は自分と永さんの二人では心配だからとアシスタントに外山さんを呼び、機械の操作などをしてもらったという話をされていたのを思い出しました。長年の付き合いをしていく中、それだけ外山さんは永さんとの生活にも携わってサポートもされる関係を築いていたのですね。

その外山さんに永さんが終生愛したラジオについて聞いてみることになり、画面は再び『ゴロウ・デラックス』のスタジオに。そこで写るのは永六輔さんを形作ったお人形で、度々ラジオを体調不良のためにお休みしていた永さんの代わりに、着ているものまでしっかりと永さんと同じのを着用してラジオブースに鎮座していたそうです。

 

 

吾郎「ねえ、16年というすごい歳月なんだけど

外山「毎週土曜日にやってたんですけど、本当にお元気なとき、まで、え~金曜日に打ち合わせして、土曜日の放送が終わってから旅に出て、でまた金曜日に戻ってきて、土曜日放送してというのをず~っと毎週

吾郎「そう、旅に

外山「はい。それはちゃんと自分で見たものをラジオで話す。見てないものは話さないっていう考え方の方だったんで、その前の週にあったことを必ず次の週ラジオで話してくださって

吾郎「そうなんだ。全部ラジオのためだよね。プロ意識ですよね

 

 

 そんな忙しい毎日の中、2010年永さんはパーキンソン病だと診断されました。

 

neurosurgery.med.u-tokai.ac.jp

一番近くでその永さんを見てきた外山さんはどう感じていたのかといえば、

 

 

吾郎「当時はどういう様子だったんですか

外山「あの、よくろれつが自分で回らないなどうもというのがあったみたいで、あの、今言っていることわかりますか?って毎週聞かれたりとかしてたんですよ。で、わかったんで、わかりますよって言っても、やっぱり自分では永さんものすごく早口だったし、せっかちだし、話好きだし、いっぱい話したいのにおかしいなってずっと思ってらっしゃったみたいで。だから病気じゃないかと思ってるんだけど、診断されるまではそれがわからないから、なんかちょっとイライラしてる感じはしましたね

吾郎「そうか。まだ診断される前だったんだ

外山「そう、診断される前からちょっとおかしいなって思ってらっしゃったみたいで

 

 

実際、2014年『ゴロウ・デラックス』に永さんが出演された際、病気についてはこう語っていました。

 

 

永 「全部止めた。ろれつが回らなくなったり、いろいろしたんです。何言ってるかわからなくなって。その時にラジオを辞めようと思った。僕はラジオから始めた人間ですから、ラジオを辞めようと思ったら、小沢昭一さんがね、“話があるから”って呼ばれて、“絶対辞めるな、ラジオを” 口が回らなくなったっていいじゃないか。そんなものはどうでもいいこと。あなたがマイクの前にいてくれれば、風情があれば、紙の音がしたり、咳の音がしたり。“あっ、永六輔がマイクの向こうにいるな”と思うことが大切なことなの。言われた時に僕は泣きましたよ

吾郎「でも本当にそうなんでしょうね、聴いている方からすると

永 「そうなんですよ

吾郎「その、なんか内容がどうだとかね、そういうことだけではなくてね…なんか、一緒に近くにいてくれる存在というかね

 

 

そんな闘病の中、放送をしていた永さんが最後まで続けたことがあります。

 

 

外山「リスナー方、たぶん永さんに手紙を出したことがある方だったら、必ず永さんからおハガキ来てると思います

吾郎「書いてるんだ

外山「はい。あの方、必ず書いてらっしゃいます。返事を

 

 

実際、Twitter上で『ゴロウ・デラックス』を視聴し、ラジオのリスナーでもあった方が貰ったとツイートしていらっしゃいましたが、必ずリスナーからのハガキには返信していた永さん。時には年3万枚以上も書き、身体を壊してしまったこともあるのだとか。今日は実際、外山さん宛に永さんが送ったハガキを見せていただけることに。ちょっと病に対して弱気になっている言葉だとか、お二人が通っていた喫茶店の名前が出てきたり。普段はお食事をご一緒するときは永さんがお支払いになるけれど、この喫茶店だけは外山さんが支払うことになったものの、気づけば永さんが一緒に行く方の分まで外山さんにツケたり、お二人の仲の良さが伝わるエピソードが微笑ましい。

 

ebisu.goroh.net

ラジオから始まり、最後までラジオを愛した永さん。ただ病から残念ながら2016年2月1日のラジオ出演が最後となってしまいました。

 

 

外山「永さん、こんばんは

永 「こんばんは

外山「永さん、ちょっと…どうなんですか。体調というか、あのう皆さん、ほら、永さんがいらっしゃらないと心配されるのでね

永 「本当はスタジオにいたかったのね

外山「そうですね。永さんあの、背中がね、“どうにも痛い”って言ってたじゃないですか。今回はその背中の痛くなくすために

永 「手術をして。命のもとになるところを治すって先生が言ってた

外山「ふ~ん、命のもと

永 「本当はラジオを毎日やっている人間が休んじゃいけない。体に気をつけて。何を気をつけなかったんだろうかと思った。ここのところ病院で安静にしてて、何がいけなかったのか。悪いことしてないもんね

外山「悪いことしてないですよ

永 「してるかな

外山「(笑)してるんですか、ちょっと。そんなことないですよ、永さんは。すぐ退院はできるんですか?

永 「できるでしょう

外山「できるでしょう。散歩行きましょうね、散歩

永 「散歩ね。長峰(アナウンサー)さんとね

外山「ちょっと、私は(笑)“長峰さんとね”じゃないですよ。来週ですからね、長峰さんは。来週スタジオで、長峰さんと楽しんでください

永 「はい

 

 

聴いているうちにいろいろ思い出すことがあるのか、こみ上げてくるものに静かに涙を流しては拭う外山さん。

 

 

外山「そうそう

吾郎「長峰さん…

外山「あの先輩なんですけど、私が散歩行こうって言ったのに、あの先輩と。それもあの、私すごい、あのこのとき病室で……なんていうんだろうな、なんか、やっぱり横になりながら弱弱しいわけですよ。で、なんか泣きそうになっちゃって。だからちょっと冷たいんですよ、私の言い方も。泣かないようにしようと。でもそういうのも全部わかっちゃうから、永さんに

吾郎「まあ、必死でなんか面白いこと言って。茶化してね、その場を

外山「そう。それだから長峰さんとって、ちょっとそういうこと仰ってくださってね――――…ああ、こんなに泣くと思わなくてすみません

吾郎「いやいやいやいや、そりゃ当然というか、う~ん、3週間というのはあまりにも、ねえ……外山さんにとってどんな人なんだろう

外山「いろんなことを優しく、教えてくださる方で、難しいことを優しくって今、井上ひさしさんの。本当にそうやっていろいろ教えてくださったんで。面白く深く、とか。先生なんだけど、先生っていう感じでもないんですよね。ま、教えていただきました、いろいろ

 

 

感謝を述べながら、静かにそっと近くにある人形へと手を伸ばし、触れる外山さんの仕草に、永さんへの言葉にならない愛情をひしひしと感じました。

我々は近しい人が亡くなったときにどうすればいいのか。永さんの著作にその答えはありました。吾郎さんが朗読します。

 

永六輔のお話し供養

永六輔のお話し供養

 

 

 

人の死は一度だけではありません。

最初の死は、医学的に死亡診断書を書かれたとき。でも、死者を覚えている人がいる限り、その人の心の中で生き続けている。

最後の死は、死者を覚えている人が誰もいなくなったとき、そう僕は思っています。

死亡診断書を書かれた人に僕はよく会っています。

雑踏の街や電車の中、劇場の遠い席などにその姿を見かけ思い出が蘇って来る。

僕がその人を忘れない限り、その人は存在していて消えることはない。

僕たちは死者とともに生き、自分が死ねば誰かの心に記憶として宿る。

でも、人は歳月の中で、亡くなった人のことを忘れがちです。

だから、ときどき誰かと個人の思い出話をしたり、街角で出会ったりしましょうよ。

それも供養のひとつだという気がします。

            『永六輔のお話し供養』より一部抜粋

 

 

朗読を終えた吾郎さんがしばしの間のあと、“うん”と頷けば、どこか哀しみながらも気持ちを切り替えて“うん”と同じように頷く外山さん。きっと、永さんの語るこの言葉の意味が今、しみじみ感じられるのかもしれません。

そして吾郎さんと外山さんがセットの前に立ち、それぞれ永さんへの言葉を述べます。

 

 

外山「永さん本当に長い間、お疲れさまでした。16年、もう一緒にラジオさせていただけて幸せでした。いつかまた会える日のためにですね、恥ずかしくないよう生きていきます

吾郎「はい、僕もですね、永さんの遺志を受け継いで、今後も外山さんとますます素敵な番組を作っていきたいと思いますので、よろしくお願いします。ということで今夜の『ゴロウ・デラックス』特別篇をご覧いただき、ありがとうございました。永六輔さん。どうぞ、安らかにお眠りください

 

 

追悼番組として2014年に放送された内容を再放送するだけかもと思いきや、きちんと永さんの人生を振り返りながら、出演されたシーン、シーンを差し込み、そして外山さんとの思い出も湿っぽくなるでもなく語り、30分ながらしっかりと永さんへの思いに満ち溢れた内容でした。

外山さんという近しい人がいるからと必要以上に永さんへの思い入れをするでもなく、けれどしっかりとTV業界の礎を築き上げた先人への敬意は込められた、『ゴロウ・デラックス』らしい永六輔さんを偲ぶ回だったと思います。

吾郎さんの言葉は自身の言葉でもあると同時に、番組スタッフ全員の気持ちも代弁しての言葉でもあるようにも感じます。きっと『ゴロウ・デラックス』ならば、吾郎さんの言葉どおり、ますます素敵な番組となって、これからも人を楽しませてくれると思います。私たちもそんな番組を楽しみにしていますし、きっと永さんもお二人のさらなる成長を、そして番組の成長も楽しみにしているでしょう。

このような場ではありますが、改めて永六輔様にお悔やみ申し上げます。

公式HPにも番組の感想をお願いします⇒『ゴロウ・デラックス』ご意見・ご感想大募集!| TBS

 

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